鴻巣友季子(翻訳家・文芸評論家)&中島京子(小説家)登壇『決断する時』特別試写会トーク
『決断するとき』特別試写会トークショーが3月18日、東京の日比谷コンベンションホールで行われ、クレア・キーガン原作のベストセラー小説「ほんのささやかなこと」の翻訳を務めた鴻巣友季子、そして「小さいおうち」で直木賞、「やさしい猫」で吉川英治文学賞などを受賞した小説家の中島京子が登壇した。

舞台は1985年、アイルランドの小さな町。石炭商として生計を立て、家族と慎ましく暮らすビル・ファーロング(キリアン・マーフィー)は、クリスマスが近づくある日、石炭を届けに訪れた地元の修道院で、目を背けたくなる現実を目撃する。そこに身を置く少女から「ここから出してほしい」と懇願され、若い女性たちが行き場もなく苦しんでいる現実と向き合うことに。見て見ぬふりをすることが賢明だと理解しながらも、良心の呵責に悩むビル。そんな彼が、ついに下す決断とは――。アイルランドに実在した“マグダレン洗濯所”の人権問題を背景に描かれる。
鑑賞後の感想について、鴻巣は「原作も静謐な物語なのですが、映画はさらに寡黙な世界。原作は主人公のビル・ファーロングの胸の内が書かれているけれども、映画はそれらを全てキリアン・マーフィーがいわゆるノンバーバル、言葉を介さない表現で、目の動きひとつ、首の傾き方ひとつ、そういった繊細な至高の演技で伝えていく。場面ごとに胸がいっぱいになりました」と振り返り、中島は「 映画自体に引き込まれて、寒そうな感じ、クリスマスが近づいてくる雰囲気、立ち上がってくる風景を堪能しました」と映像ならではの表現を称賛した。
続いて鴻巣は「ヨーロッパの文学界は長編偏重主義でノーベル文学賞は中短編作家は受賞しない。そんな中でクレア・キーガンは初めから中編作家として活躍していて、『ほんのささやかなこと』も短い小さな世界ですが、言葉が研ぎ澄まされていて一言も無駄がない。そしてすごく透明感のある作家」と原作者クレア・キーガンの魅力について語り、中島は「一文一文読み逃せないという感じがしました。家庭内の静かな話だったりしますが、書き込まれていることが後になっていろいろ響いてくる。ひとつひとつに含まれている情報や奥行きが深い。こういうふうにはなかなか書けない。すごい作家」と応じた。また、鴻巣は「家庭の場面という話が出ましたが、ビルの家は5人姉妹で、『若草物語』へのオマージュがあると思うんです。しっかり者の長女に、次女は男勝りで聖歌隊のリーダー、一番下のロレッタは絵が上手。他にもチャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』『デイヴィッド・コパフィールド』が出てきて、イギリス古典への目配せを感じました」と古典文学への敬意に着目。
原作を読んで強く心を動かされたという中島は「一番初めに読んだとき、涙が滂沱だったんです。ボロボロ泣けてしょうがなかった。ラストのビルの行動、それまでの静かな描写が全てを説明していたことが分かったとき鳥肌が立った」と述べると、原作を自ら出版社に持ち込んだという鴻巣は「実は出版されるまでは怖かった」と明かす。続けて。「ビルの、ある意味、自己満足みたいなものが非難されるのではないかと怖かったんですが、日本ではビルの勇気と他愛を評価してくださっている方が多いのでほっとしています」と吐露した。
マグダレン洗濯所は、18世紀から20世紀後半にかけて、主にアイルランドで存在していた女性収容施設。カトリック修道会によって運営され、表向きは「保護」「更生」「慈善」を目的とした施設とされていたが、収容されたのは未婚で妊娠した女性、性的被害を受けた女性、家庭や社会から「素行が悪い」と見なされた若い女性たちであった。洗濯作業を中心とする長時間の無償労働を強いられ、身体的・精神的な虐待があったとする証言も数多く残されている。
鴻巣は「驚くべきことに、1998年まであった。要するに国ぐるみだったんです。国がカトリック教会にお金を出してマグダレン洗濯所というネットワークを作っていたわけです。チェーン店のようにたくさんあった。一種の矯正所、更生施設兼無償労働で女性の労働力を搾取していたんです」、さらに「もうひとつ恐ろしいのが、どうやら生まれた子どもを地方や国外に売っていたという疑惑がある。こういう恐るべき施設が国ぐるみで1998年まであった。ビルが声を上げるのが85年ですから、その10数年先まであったんですね。だけど、ビルのような人が何人もいたからなくすことができた。けれども、国からの謝罪や補償は十分に出されていない。まだまだ未解決の部分があるというのが現状。本当に過酷なことが20数年前まで起きていた」と語気を強めつつ、「とにかくカトリック教会の権力が絶大だった。私が最初に早川書房へ売り込もうとした時に何と言ったかというと、『これは教会ディストピアです!』と。早川書房は『侍女の物語』という非常に有名な女性を子どもを産む機械にしてしまうディストピア小説を出している版元なので、『それは面白そうですね』と言ってもらえて――」と経緯を話した。
アイルランドの言葉が多く登場する本作については、翻訳上の工夫も明かされた。鴻巣は、「固有名詞をどう訳すか悩みました。オーブンやシリアルの名前が出てくるのですが、それをそのまま“オーブン”“シリアル”と訳すとアイルランドらしさが出ない。そこで、シリアルは固有名詞のまま表記し、割注で説明を加えました。また、アイルランド紛争や当時の不景気といった政治的・社会的背景についても、適宜説明を入れています」と語る。さらに物語の改変についても触れ、「シノット家の息子がつらい思いをしているシーンがありますが、原作では妻との会話の中で少し触れられる程度です。 映画ではそこを大きく広げていました。また、サラ(マグダレン洗濯女かたら脱走を試みる修道女)も原作ではすでに子どもが生まれていますが、映画ではこれから生まれる設定に変わっています。これによって、今後の展開がより波乱に満ちたものになると予感させます」と述べた。

キリアン・マーフィーの演技について、『ピーキー・ブラインダーズ』を全シリーズ観るほどのマーフィーのファンだという中島は、「キリアンが惚れ込んで映画化する作品だという情報を知り、英語の原作を取り寄せました」と、その出合いを振り返る。さらに、「ファンということを差し引いても、目の動きひとつで寡黙な男の内面を雄弁に表している。(スターの)オーラを消し、“おっさん”になりきっている。今回も本当に素晴らしかった」と絶賛した。それを受けて鴻巣は、「キリアンはもちろん大好きなんですが、原作のビルのイメージからすると、少しイケメンすぎるかなとも思いました(笑)」と語りつつ、「私は、像を結びそうで結ばない曖昧なイメージのまま訳しているのですが、もう少し背が低い人物を想像していました。ただ、眼光の鋭さはぴったりだと感じましたし、『オッペンハイマー』の時以上に、むしろ本作のほうが、存在感が際立っているのではないかと思います。セリフは圧倒的に少ないですが、その分、存在感は際立っていました」と、その演技を高く評価した。
原作の原題は『Small Things Like These』。日本語では『ほんのささやかなこと』と訳されている。鴻巣は「『Small Things Like These』はそのまま原作に出てくるんです。ビルは娘たちのことが自慢でならない。それは名門校に行っているからではなくて、例えば、お店でお釣りをもらったときにサンキューと言えるとか、教会で席に着くときに正式なお辞儀ができるとか、そういう『ほんのささやかなこと』が嬉しいのだという件がある」と明かすと、中島は「私はすべての小さいことが彼をそこへ持って行ったというふうに読みました」とタイトルの解釈について語った。
また、鴻巣は「原作を読むと、行間にあったものが見えてくる。 映画を“埋めていく”ような感覚でご覧いただけると思います。そして原作を読んだうえで、もう一度映画を観てほしい。そうすると、ひとつひとつの場面がより胸に迫ってきます。ぜひ2回、3回と繰り返し観ていただけたら」と呼びかけ、トークを締めくくった。
クレア・キーガン原作のベストセラー小説「ほんのささやかなこと」(鴻巣友季子 訳/早川書房 刊)を映画化した、キリアン・マーフィー主演『Small Things Like These(原題)』が邦題を『決断するとき』(配給:アンプラグド)とし、3月20日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国順次公開される。

第96回アカデミー賞 主演男優賞に輝いた『オッペンハイマー』(23/日本では2024年に劇場公開)の後、キリアン・マーフィーが次なる挑戦として選んだ意欲作。原作は、『コット、はじまりの夏』(22)の原作「あずかりっ子」でも知られる作家クレア・キーガンのベストセラー小説「ほんのささやかなこと」。マーフィー自身が原作に深く惚れ込み、自ら映画化を希望。『オッペンハイマー』の撮影中にマット・デイモンへ企画を持ちかけ、ベン・アフレックも参加。そして、マーフィー出演のTVドラマ「ピーキー・ブラインダーズ」(日本ではNetflix配信)で監督を努めた、ティム・ミーランツが加わり映画化が実現した。マーフィーは本作で初めてプロデューサーとしても名を連ね、キャスティングにも参加している。https://www.youtube.com/watch?v=l68bmwZaOrs
アイルランドに実在した“マグダレン洗濯所”の人権問題を背景に描かれる本作は、社会が長く黙認してきた現実を前に、「知ってしまった個人はどう振る舞うのか」を静かに問いかける人間ドラマ。『オッペンハイマー』とは一線を画し、言葉を抑え、沈黙と内面の葛藤を徹底的に演じ切るマーフィーの姿が、深い余韻を残す。

また、第74回ベルリン国際映画祭にて、エミリー・ワトソンが助演俳優賞を獲得したことでも話題となった。ワトソンは、マグダレン洗濯所となった修道院の院長シスター・メアリー役を演じ、長年「見て見ぬふり」をされてきたマグダレン洗濯所の残虐さを正当化する静かな権力を体現。アイルランド社会の闇を象徴する、その抑制された演技が高く評価されている。






