2018年より、映画監督の濱口竜介、三宅唱、そして映画研究者の三浦哲哉の3人が続けてきた「映画の演出」についての対話の番外編を劇場にて実施‼ これまで幾度も、巨匠たちの名作や自作のシーンを紐解き、《演出について》言語化をしてきた3人が『急に具合が悪くなる』について語り合いました。
※本トークは、「かみのたね」収録時に聞き切れなかったことをさらに深掘りするというコンセプト。

予定調和ではない、偶然に左右されながらつくられた映画

シナリオも読んでいるというふたりから、シナリオに書かれていないことや違うものが撮られていることから感じる「予定調和でないもの」についての質問が濱口に向けられる。
三浦から「様々な偶然に左右され、それを巻き込みながら作られた作品ということに気が付かされた」と語るのは、マリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)と智樹(黒崎煌代)が出会う公園で、雨宿りをするシーン。マリー=ルーが智樹に顔を近づけて――3人は”ユマニチュードポジション”と呼んでいる――「ここで待ちましょう」と、フランス語、英語、日本語で伝えるシーンに「介護の技術であるはずのものなのに、介護室の外にいる人間までも動かしてしまう、とんでもないことが起きる映画だなと思った」とし、どんな経緯と判断であれがつくられたのか尋ねる。
濱口は「シナリオは晴れ設定で、あの公園の坂をひたすら智樹が転がる、というようなことが書いてありました」と明かす。数日前の時点で雨予報だったので、雨と晴れの2パターンを準備して撮影に臨んだという。「結局パリは天気が変わりやすいので、雨雲のアプリを見て撮影を進めていくなかで、(「ここで待ちましょう」という)マリー=ルーのセリフを付け加えました。後のシーンでマリー=ルーが日本語を喋るということは決まっていたので、その時に突然喋り出すよりは、ここで振っておいた方が良さそうだなという意図もありましたね」

涙の存在

三宅は、予定調和ではないものとして、この映画全体で最たるものは”涙”では、と問いかける。「登場人物が何回か泣きますよね。 書かれているに違いないと思われるような撮り方をされた涙もあれば、もしかしたらその場で内発的に起きた涙かもしれないというものもあって、そういうものを見ながら観ているこちらの感情も高ぶるところがありました」。そのうえで、そもそも”泣く”ということを撮る前段階として「今回この原作、すでに亡くなってしまった著者がいる本を映画化するにあたって、観客にどういうことが起こるのか、涙に関してどういったスタンスだったんですか?」と質問。
対して濱口は「原作を読むにつれて、腹から上がってくるような感覚が自分にもあって、泣く泣かないに関わらず、体を突き動かされるような気持ちを原作から貰って映画化をしているわけだから、エモーションが高まるということは絶対に起こるべきだと思っていました。操作的に“ここで泣く仕掛けですよ”というのではなくて、単純に、この人たちの姿勢、態度、アティチュードを見たら、自然とこみ上げてくるのでは、と思っていました」と原作から受け取ったものを映画にするという観点からの考えを述べる。さらに映画内で(涙を流さなくても成立するシーンでも)「マリー=ルーが涙する」とシナリオに書いていた理由については「介護のプロフェッショナルだったら、ある程度親しくしていた人だったとしても、その人が亡くなっても泣かない、ということはあり得ると思います。でも、この人は介護のプロフェッショナルにも関わらず、人目をはばからず泣いてしまうような人であるということを、むしろ描こうと思いました。ものすごくプロフェッショナルというよりは、もっとパーソナルな理由で(介護職を)やってる人であると」とマリー=ルーのキャラクターの捉え方について展開。三宅は「脚本における濱口タッチなるものがあるとしたら、“あ、こういう人なのかな”って思ったら、次のシーンではその予想と違う行動、あるいは新しい行動をしてくれることで、どんどんその人への関心が持続したり、面白さになってるんだなと思いました」 と濱口脚本の魅力を語った。ちなみに「ヴィルジニーさんは『私いつでも泣けるから大丈夫』とおっしゃっていたんですけど、泣けなくて(笑)。そりゃそうですよ。でも普段通りに走っているトラムの中で撮影しているので、元の場所に戻って撮影を行うのは困難。なので、パリをよく知ってる人から見ると、実は車窓から見える景色はつながってないんです。全然違う地区で」という裏話も濱口から飛び出すと、三宅は「それが予定調和ではないってことですよね」と返す。

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フィクションとしての強度が求められるシーン

普段はあまりないことだと前置きしながら、この映画の編集中ではよく泣いた、と明かす濱口。正面ショットで目が合うと毎回新鮮にこみあげてくる、と言うが、ほかにも編集中涙したシーンが。
三浦があげたのは、真理の傍らに吾朗(長塚京三)が立って話すロングテイク。窓は映っていないが、オレンジの光のなかで木の影が揺れて、それが消えると今度は青い光になっていく。そのなかで智樹やマリー=ルーが登場しては退場していく。 「長塚京三さんが本当に素晴らしくて、奥行きのあるキャラクターの魅力の全容が表れて、どれだけ僕らが感動したか。どう撮ったんですか?」。 濱口はそれに対し、「実際の施設の部屋に(照明部が人工的に光を)作って流し込んで、それを芝居の進行と合わせながら、だんだんと絞っていった」という。「果たして、これが成功しているかと言われたら、わからない。ただあの時間帯の時間の推移は、変で構わないと思っているんです。マジックアワー的な時間が、この映画にはものすごくたくさんあるんですけど、セーヌの川岸や、京都の山の場面は、2時間ぐらいの光の変化が 10 分ぐらいの場面に圧縮されているので、実際の夜明けや夜更けはあんな風に光は変わりません。でも映画ってそういうものでしょというスタンスでやっている。その延長として照明で作った場面もいいんじゃないかなと思っています。 中心にあるのは長塚さんの演技で、吾朗という人のパーソナリティがわかる唯一のシーンですよね」
ここには三宅も反応し、「もしかしたら生きているうちの最期の会話かもしれないっていう場面だから、俳優もそのレベルの感情を用意してきますよね。もしかすると何かをきっかけに崩れてしまうかもしれないと考えると、夕日なんかやってる場合じゃないって考えることもできると思うんです。 にも関わらず、やる。それはなぜ?」と投げかけると、濱口は「人工の光でやるっていうことは、繰り返せるということです。リアリズムに基づく強度とはちょっと違う、フィクションとしての強度が求められている。 で、編集のときに泣いてしまうようなものが撮れたので、フィクションであることと、俳優自体がすごく信じられるものであるっていうことが、両方できていることがすごく大事でした」と振り返る。三浦も「そのときの吾朗の台詞、本当に素晴らしい台詞ですよね。心に残ってます」と再びシーンの印象深さを強調した。

 

いくらあれば映画は作れる?新作は?

資本主義について論じるシーンも印象的な本作にちなんで、話は映画づくりの資金の話へ。いくらあれば映画がつくれるか?という視点に対し濱口、三宅ともに「題材による」と悩みながらも、「我々が二十代の頃だったら数百万だったものに対して、今は多分数千万かけることにはなると思う。それさえあれば映画は撮れる。必ずしもその映画が、今作よりも悪い映画になるかというと、きっとそうではないだろうっていうことも思っている」と濱口が答え、三宅も「二十代だった時の金額ではもはや撮れないっていうのは当然あるし、だからといってめちゃくちゃ必要かっていうとそうでもない。 ただ自分らが恵まれていたのは、今って十年前とくらべて(収益を)回収できる場所ないし、お客さんの状況がちょっと変わっている。 自分自身の映画を見てくれる人は増えたかもしれないけど、そもそもどうやって回収するんだっけ? っていう感覚も同時に変わっていって、回収するためにはもっとかけなきゃいけないのかとか、そっちの方が悩ましい」と、映画館をめぐる状況の変化についても触れる。
三浦はそこから、映画内で真理とマリー=ルーがホワイトボードを囲んで語る場面を例に話す。「”ボディ”っていうのが大事だっていうことじゃないですか。 利潤がちゃんと回収できればいいかっていう話ではなくて、仕事に携わる人の身体であるとか、”ネイチャー”がきちんと養われないと、結局は規模が大きくなったり、回収率が高まっても行き詰まる。 それを、死を覚悟した真理が言っているっていうのがまた切ないわけですけれども。例えば映画館がちゃんとあって、人が集まる、そのインフラというか、映画を見て配給して……ていう場所、ボディっていうか。 そういったものが大事ですよね」と「映画館がボディだっていうことですね」と三宅が頷く。
働く環境について、濱口も実感を持って語る。「仕事をして1 日を過ごす、疲れる、寝ないといけない、食事もしないといけない、というのは当然のこと。できることならば、週に2日休みがあることが望ましい。ちゃんと休んでちゃんと回復をして、というサイクルが根本的になくてはならないということを、遅まきながら思うようになりました。今作では、制作体制なども全部含めて果たそうとやっているとは思います」。

濱口に何を撮って欲しいか?と三宅が三浦に投げかけると「小津安二郎のリメイクやってほしいなと思う」というと濱口は「いやいやいや……」と及び腰。一方の三宅は「5年以上前は、濱口さんは法廷映画を撮るべきだと言っていて。どんな言葉が書かれ、どういう動きがあるのかっていうものはぜひ見てみたいと思った。でももしかしたら法廷でなされるような言葉の戦いってもう近作で見せてもらったかなって気がしているので、全然別の企画で……宇宙人と遭遇する映画を撮ってほしいなと思ってます」と思わぬ路線の提案。濱口は「いわゆるSFではなく、コミュニケーションが成り立たないものとどうしていくのかっていうのは興味非常にありますね」としながら「私が(三宅さんが)いずれ撮るんじゃないかと思っていたのは、純然たるアクション映画です。 ホウ・シャオシェンの『黒衣の刺客』みたいな、チャンバラものというよりはもうちょっと、市井の人たちの暮らしの中からすっと出てくるようなアクションっていうものがあるといいかなと思ったんだけど、でも実はもう“アクション”の映画をいろんなところで、日常のレベルでやっている人でもあるから、だからそういう意味では今は“アクション映画を撮っている映画“を撮ってほしい」と逆提案。三宅も乗り気で「企画が1個できた」と笑いを誘う。

せっかくQ&Aのある映画なので……との提案で、急遽、客席から質問を募ることに。さまざまな質問が上がる中、「声という存在について」を問われると濱口が「声がすべて。映画は何よりも視覚メディアですが、私が撮っている画面は、基本的には非常に平板で単調なもので、そこに何かの奥行きを加えてくれるものは、ただ声、音であると思っています」、三宅が「濱口さんの”声映画”も考えてまして。合唱映画をつくりましょう。『ソング・サング・ブルー』面白かった!」と呼び掛けた後、両名が声をそろえて「深田さんの新作『ナギダイアリー』の声がすばらしい」よね」とコメントが解禁されたばかりの深田晃司監督新作に言及。三浦は「『急に具合が悪くなる』で車いすに乗っている女性、歌手という設定で、声に魅力があって、その話もまた聞きたいです」と名残惜しそうに述べる。
最後に三浦からは「本当に何回見ても面白い映画です。「かみのたね」もとても面白い記事だと我ながら思うので、それを読んでまた観てほしい、一緒に観ましょう」、三宅からは「今日は映画館がボディだってことがよくわかってよかったなと思います。また映画館でお会いしましょう」濱口監督からは「このメンバーで話すと、単純に話すのが楽しくなってしまって、皆さんが楽しんでる私たちを見て楽しんでいただけたら本当に今日はありがとうございました。」と3人それぞれにトークを楽しんだ様子で締めくくられた。

ロングラン上映記念特別鼎談イベント

【特別鼎談】濱口竜介×三宅唱×三浦哲哉
『急に具合が悪くなる』をめぐって―番外編―
日 時: 9月5日(土) 10:20の回上映後
登壇者 :濱口竜介監督、三宅唱監督、三浦哲哉氏(映画研究者)
場 所: Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下7F

■3人の勉強会を収めた書籍
濱口竜介・三宅唱・三浦哲哉『演出をさがして 映画の勉強会』(フィルムアート社/定価2600円+税)
 ■『急に具合が悪くなる』をめぐるフィルムアート社のテキストサイト「かみのたね」
https://www.kaminotane.com/2026/09/03/29110/

『急に具合が悪くなる』監督:濱口竜介
原作:宮野真生子・磯野真穂著『急に具合が悪くなる』(晶文社)
脚本 濱口竜介 ルディムナ玲亜
出演:ヴィルジニー・エフィラ 岡本多緒  長塚京三 黒崎煌代
製作:Cinéfrance Studios, オフィス・シロウズ, ビターズ・エンド, Heimatfilm, Tarantula 配給:ビターズ・エンド
提供:Soudain JPN Partners フランス=日本=ドイツ=ベルギー合作|196分|カラー|1:1.5

 

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